印象に残る言葉⑩
☆ 篠田知和基『霊魂の行方』(アジア遊学№101日中韓の霊魂観の違い,勉誠出版)
この論考は素人には示唆に富み,極めて面白い。要点は次のようにまとめられている。少し長いがそのまま引用すると,次のようである。
--人はどこから来て,どこへ行くのかという永遠の問いに,文学者や思想家がそれぞれ,答えを模索してきたが,日本では形而上学的な死の思想が存在せず,しかし,また物質的な遺骨信仰も火葬の普及によって影が薄くなり,さらに複数の宗教観,世界観から,複数の他界観をもっていて,それだけ,霊魂の行方はあいまいになってくる。社会的葬送儀礼が商業的に盛大におこなわれれば,そのあとは,死者は罪障を許され,すべての責任から免除されるとみなされる。それに対して,霊魂不滅観をもつ文化のひとびとは,死者と死者の属する共同体の責任を永遠に問い続ける。
これだけ読めばほとんど引用の目的は達したといえるが,具体的な論及も引用しておこう。
--中国も韓国もこの10年,あるいは20年の変化を別にすると,伝統的に儒教的観念が強く,死者の遺体を破壊することに抵抗観(まゝ)があると見られる。土葬,すなわち,死者の肉体を永遠に保存する文化である。それに対し,日本は火葬率99%である。
--遺体が火葬によって消滅するか,土葬によって永遠に存続するかは人々の意識にとって大きな問題である。遺体の消滅は記憶からの消滅に容易につながる。火葬文化圏では死者の生前の罪も容易に忘れ去られる。
--日本では死者は少なくとも一定期間の「もがり」を経れば罪障も穢れもない清浄な霊になるばかりか,庶民信仰では要するに「神」になるのであれば,死者すなわち神であって,死者を掘り起こして生前の罪を問うということはないのである。
--多くの韓国や中国のひとが,日本人を仇敵のように思い為し,どうしても許せないと感じていることは事実であろう。
--むしろ戦争そのものを忘却のかなたへおいやって済ましているのが日本人で,過去の罪によって告発されることに不当感をいだいているが,霊魂不滅の観念のつよいでは国では,そう簡単に過去を精算することはできないのかもしれない。
ここから,日韓友好だの日中友好という言葉の欺瞞性を強調する道もあれば,それでもとかそれだからこそという方向性もあるだろう。
☆ 奇誠庸(기성용 キ・ソンヨン)
勿論,上の分析で全てが説明できるわけではない。民衆の側にこの心性を利用した責任転嫁もあれば,権力側が民衆をくすぐり誘導するのに利用することも少なからずある。
アジアカップ準決勝で奇誠庸が猿セレモニー(원숭이 세리머니)を演じたが,事後の釈明(?)に本音が表れている。観客席の旭日昇天旗(욱일승천기)を見て胸の中で涙が出たと,自国民の多数が支持してくれそうな言い訳を持ち出す。そこに心根の下劣さが伺える単なる甘ったれに過ぎない。だからこそFIFAによる制裁追求の動きが生じると,今度は欧州人から受けた人種差別に対する抗議にすり替える。
ここで思い出すのは,2009年WBCの表彰式における韓国チームのイ・ヨンギュ(이용규=李容圭)の行動とその後の言い訳だ。ここでも韓国の世論は自分に味方するという確信があったのだろう。実際,韓国ではほとんど問題にされなかったようだ。(当ブログ『印象に残る言葉②』http://paiksooyum.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-f005.html)。ということは,韓国の社会がそういう社会だと日本人ははっきり気づいておこう。嫌悪の対象としてではなく理解の対象として。
それにしても中央日報という新聞は,韓国語版と日本語版でなぜああまで姿勢を変えるんだろう? 日本語版だけを読む人は,忠実な翻訳だと思い込まないほうがいい。まあ朝鮮日報と似たり寄ったりだから別に驚きはしないけれど。韓国三大クズ紙とでも呼ぼうか。ただしこれが国民の多数の声を反映しているとも言えるだろうから,本音を知る上では大いに役に立つ。もちろん,KARAのニュースは大きく扱うのに,韓国における口蹄疫の殺処分・埋却処分が宮崎の8倍に迫ろうが10倍を超えようがほとんど報道しない日本のマスコミも誇れるものではない。
この2人と比較するなら,2010年バンクーバーオリンピックのスノーボード・ハーフパイプ日本代表の國母和宏の潔さの方がはるかにましと思える。たとえ日本国中を敵に回しても揺るぎそうにないのだから。
最後に一言付け加えるなら,奇誠庸の「選手である前に大韓民国の国民だ」というつぶやきと,李忠成の「韓国人,日本人である前に僕はサッカー人(축구인)だ」は,まさに好対照だ。













































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