印象に残る言葉③
☆ 家族会
田原総一朗のTVでの発言に対して,家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)と救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)が抗議文を送ったと報道されている。
田原総一朗なる人物に興味はないし,その発言がどういう意図でなされたのかを詮索する気にもなれない。印象に残ったのは,家族会の抗議文だ。
それによれば,田原の発言が「家族と多くの国民の気持ちを踏みにじるもの」となるらしい。このような気持ちを踏みにじられる「多くの国民」の一人に数えられることを断固拒否する。家族と同じ気持ちを持つことを,なぜ強要されなければならないのかが理解できない。
多くの国民が背後にいるのが当然と思い込む傲慢さ,逆に言えばそのように思い通りになると高をくくられている国民像。当為(Sollen)の問題であるはずがない。多様な意見を認めようとしないこの論理の行き着く先が,家族と同じ気持ちを持たない人間は「非国民」というレッテル貼りに終らないことを願う。
そもそも家族会と自民党は,互いに利用価値があるから相手をうまく利用しているだけのように振舞っているが,ぴったり息の合ったコンビのようにしか見えない。おまけにマスコミも片棒を担いで,朝鮮人蔑視という日本人の深層心理をくすぐることで煽っているなんとも気持ちの悪い猿芝居だ。
「こんなしょーも無いもん,ほっときなはれ。」と忠告してくれる人もいるが,第三のタブーを見過ごすわけにはいかない。
☆ 世間
韓国人を理解することは一筋縄ではいかないが,日本人についても同じことが言えるだろう。奥底に根強く残るシャーマニズムと同様に,日本人の行動様式に大きく影響している「世間」を論じた阿部謹也の『歴史とは何か』(岩波新書)と『「世間」とは何か』(講談社現代新書)から抜粋。
--「世間」は日本人一人一人の行動を拘束するものであり,日本人は自分の振舞いの結果「世間」から排除されることを最も恐れて暮らしている。会社や役所などで不祥事が起こったとき,「世間を騒がせて申し訳ない」と謝罪することがある。
--「世間」の中にありながら,歴史を自分自身の体験として身近に引き寄せるためにはどうしたらよいのだろうか。何よりもまず個人が「世間」から自立しなければならない。そのためには「世間」と闘わなければならないのである。「世間」は個人が突出することを好まない。全体として「ことなかれの体質」をもっている。その中で自分の資質を伸ばし,自分の主張を貫いてゆくためには闘わなければならないのである。「世間」と闘うことによって私たちは歴史への展望をも開くことができる。
--日本人は一般的にいって,個人として自己の中に自分の行動についてを絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく,他の人間との関係の中に基準をおいている。
--この詩(金子光晴『寂しさの歌』)はすでに述べたことがあるように日本人というものを全体として捉えた傑作である。この詩に示されている寂しさはどこからくるのか。私は長い間問い続けてきた。そして今私は,日本人の寂しさの根源の一つは日本人が古来結んできた世間という絆があると思う。
--大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの,日本人の全体がその中にいるということであり,その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。


























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