☆ 5.18光州民主化運動
プロローグで,十数年前からずっと悩まされている悪夢で目が覚め,汗びっしょりという描写などは,船戸与一のパクリかと思えるほど陳腐だ。目指しているものがエンターテインメントであろうと純文学であろうと,陳腐では致命的な弱点だろう。
その後の光州抗争の場面では,朴寛賢,尹詳源,金鍾培,金昌吉,許圭晶などの実在の人物が登場する。そして聖甫は学生収拾委員会の全南大代表5人の一人となっていて,公平は尹詳源のボディーガード役を任され,金鍾培の葬儀班に組み入れられる。聖甫の妹・珠姫は最も惨たらしい殺され方をして『五月の歌』のモチーフになったといわれる孫玉礼に擬せられている。その他有名な抗争の場面も取り入れられている。しかも公平は,尹詳源と聖甫が撃たれて死ぬ場面でも横にいたことになっている。
このように,各資料で描写されている抗争の進行の中にそれぞれの登場人物を嵌め込んでいて,まるで紙芝居のような展開である。そのため資料の各場面に記述のない部分を流れる時間の描写になると,とたんに密度が薄くなる。予備知識のない読者なら,よくここまで描けたと思うかもしれないが,鬼面人を驚かすの類だろう。ネタがばれてしまえばリアリティーが乏しいのに鼻白む。しかも,強制連行や浮島丸とおぼしき帰国船の沈没など,てんこ盛りの内容が余りにも話が出来過ぎの感がある。
☆ 「恨」と「恨プリ」
そもそも「恨(ハン)」は,日本人には極めて捉えにくい概念と思える。日本語の「恨み」とは異なると指摘され,田中明,古田博史,小倉紀蔵などを読んでもすっきり理解できたとはいい難い。粗野な野蛮人である日本人は敵討ちの形でS的に恨みを晴らそうとするのに対して,高尚な韓国人はひたすらM的に耐え,「恨プリ」によって更に精神的な高みに達すると主張したいのだろうと僻みっぽい捉え方で手を打っている代物だ。
さて,作者がこの小説で訴えたいものは何か? 聖甫を無理やりにでも日本に連れて帰ることができなくて,結局道庁の銃撃戦で死なせてしまう。それに対して公平は道庁で捕らえられるが,日本人だということから強制退去という形で生き残る。その生き残ったことの後ろめたさと,恋心を抱いた聖甫の妹が虐殺されたことに対する憤りを引きずってずっと苦しむ。これを「恨」と呼びたいのだろうか。民主化に向けて闘う韓国人の苦悩と比べれば,何と薄っぺらなと感じてしまう。「恨」が曖昧だから,「恨プリ」はさらに曖昧になって行く。
そうなってしまうと,この小説のテーマが根底から成り立たなくなるのではなかろか。
このように考えていくと,そもそも公平にとって光州抗争とは何だったのかが見えてこない。帯にもあるような「ふざけるな! 韓国人が韓国人殺して,どうすんだよ!」というような紋切り型の正義感の発露は,単なる傍観者から聞かされたくないだろう。それよりも,野次馬のような日本人がデモに加わり,火炎瓶を投げ,道庁の銃撃戦では銃を取り,戒厳軍の兵士を撃った可能性もある。そのような行動に走る充分な動機が不明である。
日本に帰国した後も,韓国の民主化運動に特別な関心を示したようには思えないし,友人たちの消息を知ろうと連絡を取ろうとしたふしもない。
☆ なぜ小説なのか?
光州抗争の現場に居合わせたという実体験を基にしているのなら,むしろノンフィクションとして発表すれば,それなりの価値があるように思う。その際,週刊誌的に「これが光州事件の真相だ! 日本人の衝撃の証言!」というようなセンセーショナルな売り方をする必要はないが,地道な資料を添えたものであればそれなりに評価されるだろう。今までのところ,日本人が現場に居合わせたという資料は発表されていないようだから。
また帰国後に,日本や韓国の公安による監視・尾行など具体的なものがあれば一層よい。つまりノンフィクションなら,悪夢にうなされるだけでは不十分で,嫌がらせ・脅迫・身の危険というような現実の記述がないことには成り立たない。韓国で軍に捕まったとき日本の記者が写真を撮ったことになっているから,実体験に基づくものであればその写真が極めて有力な証拠となる。その記者を探し出すことも困難ではないだろう。それよりも,行動を共にした韓国人の証言が得られるはずだ。
ただし,たとえ証明されたとしても,所詮韓国の民主化運動に寄与したわけでもないから,歴史的な重要さは限定的にとどまるだろう。
当時朝日新聞記者・斉藤忠臣と写真部記者・青井捷夫が現場で取材していたそうだ。そのときの模様は,斉藤の以下の講演で読むことができる。
http://homepage2.nifty.com/hikaku-kyoto/kousyuu_jiken080926.pdf
このままの小説という体裁では,考える材料は得られるものの,心を打つ作品とは言い難いという印象だ。むしろ,このブログで展開した疑問点や批判の妥当性を検証するために読んで,コメントを書いてもらえるのなら大歓迎。そういう意味でなら一読を勧める。
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