チェクポルレ⑥ 金素雲-続続報-
☆ 『こころの壁』からの抜粋
--日本の悪口をいうことが〈愛国〉だと勘違いしている連中が韓国にもワンサいる。
--日本の未来を私は期待し,信じますが,但し,それは文化自体が見せかけでない,借物でない,もっと真実な根を張ったときのことです。
--日本に最も欠けているもの,それは民族の徳性--,相手を理解するための謙虚な努力である。
--声を大にして叫ぶものだけが愛国者ということになっている--。これが今日の大韓民国における〈愛国〉の相場である。
--(懐かしい日本の皆さん。) このなつかしさと,この憎しみと--。
--日本の〈悪〉を挙げよとなれば,私は韓国のいかなる志士,いかなる速成愛国者にも譲らぬつもりです。同時に,日本の〈善〉を語るにも,敢えて人後に落ちようとは思いません。
--郷土への思慕は私にとって一つの〈宗教〉であった。
--私の後ろには祖国がある。
--日本が憎かろうが,韓国がいやだろうが,お互い引越しはできない宿命なんです。
☆ 『霧が晴れる日』からの抜粋
--朝鮮人が井戸に毒を投じたと言えば,いつなんどきでも竹槍や鳶口を持出す勇気も備えている。その点では上下一致,まことに気の揃うのが日本人の特性である。
--ところが日本という国は韓国に目を向けていない。都合のいいことには利用したい。都合の悪いことには係わりを持ちたくない・・・。極端に言えばこれが一般の日本人に浸透している気持ちなのです。
--もっと謙虚に,まっとうな目で隣人を正視してほしい・・・。
--しかも動乱の惨禍によって,兄弟相食み,憎悪は骨髄に徹している。
--(両断の歴史的)責任は飽くまで「彼ら」にあり,朝鮮民族自身にないことを主張せねばならない。
--一瞬といえども私の念頭から郷土が離れることはなかったが,その郷土はいうならば薄情な恋人のようなものである。
--日本の原爆記念碑の前で涙ぐんだと聞いたら,私の祖国の人たちは親日派金素雲のやりそうなことだとせせら笑うかもしれない。申すもはばかりながら,私はそんなケチな「親日屋」ではない。
☆ ボディーブロー
金素雲が,日本および祖国に関して書いた文を中心に抜粋してみた。これら2冊の本そのものの出版は81年であるが,上の文章が発表されたのは大部分が51年~56年である。なんと50年以上前のものだ。そのことを考えると,全く色褪せていないことに驚かされる。
逆に言えば,日本と韓国の状況は根本のところでは大きくは変わっていないといえることになろうか。確かに,「韓流」のお陰で以前なら考えられなかった様変わりは起きている。しかし,マイナス側に振れていた針がゼロを指すところまで来て,プラス側に振れるにはまだまだこれからという気がする。ゼロにまで振らせたのは,部分的にはペ・ヨンジュンの功績といえるかもしれないし,それを過小評価しようとは思わない。しかし同時に,過大評価して極めて楽観的になる気分にはなれない。
軽い小手先のパンチは今までもあったし,そういう比喩なら「韓流」は手数の多いパンチといえるが,金素雲のような重いパンチ,ずっしり効くボディーブローこそ日本人には必要ではないだろうか。
断るまでもなく,金素雲の発言を全面的に受け入れるのではない。特に,「曾(かつ)て他民族を侵略したことなく,・・・この柔順羊の如き民・・・」などには大いに疑問符をつけたい。それでも次の文などは,ずっと韓国にこだわってきた胸のつかえの急所が突き止められた感じ。
--如何な名訳をもってしても,韓国の詩や民謡をその語感の持ち味通りに訳出することはできない。音感や語感の上に半音階のズレがあるからである。そして,この半音階の食い違いは,二つの民族の生活感情にもそのままに適用する。喜怒哀楽のすべてに,この食い違いは従(つ)いてまわるのである。


























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