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韓国の歴史

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2008年10月

2008年10月27日 (月)

チェクポルレ⑤ 金素雲-続報-

☆ エッセイを読む

エッセイというジャンルの中で,苦手なものがある。親友(日本人)が,법정(ポプチョン=法頂)の『무소유(無所有)』が良いと言ったので,韓国へ行ったとき早速買って読み始めたが,数ページで投げ出してしまった。静謐なものが性に合わないのかもしれない。

それに比べると,金素雲の『こころの壁』『霧が晴れる日』は面白い。それだけきな臭いということか。以前に読んだときよりも濃く印象に残る。この2冊は,以前に出版されたエッセイを編集したもののようだが,専門家ではないから原典に当たることはせずに,この2冊から抜粋していくことになる(次回から?)。

それにしても,なかなか本題に入れず外堀を埋めている感じなのは,それだけ一筋縄ではいかない相手だということになる。

☆ 大韓民国文化勲章(문화훈장)

韓国の文化勲章は5等級に分けられていて,それぞれ金冠(금관)・銀冠(은관)・寶【宝】冠(보관)・玉冠(옥관)・花冠(화관)と称される。

最近,ペ・ヨンジュン(배용준=裵勇俊)が受賞して話題になっているのは花冠であり,サムルノリのチャンゴ奏者であるキム・ドクス(김덕수=金德洙)が銀冠,ファッションデザイナーのアンドレ・キムが宝冠であった。

過去の受賞者としては,イム・グォンテク監督とシン・サンオク監督が金冠,パク・チャヌク監督とイ・チャンドン(이창동=李滄東)監督が寶冠,カンヌ映画祭主演女優賞のチョン・ドヨン(전도연=全度硏)が玉冠を受賞しているそうだ。

このうちイム・グォンテク,シン・サンオク,パク・チャヌクには既に触れているが,イ・チャンドンはどういうわけかこのブログ初登場。『グリーンフィッシュ(초록 물고기)』『ペパーミント・キャンディー(박하사탕)』『オアシス(오아시스)』『シークレット・サンシャイン(밀양=密陽)』等の秀作を撮っている。この中では,『密陽』が一番つまらない。というか,チョン・ドヨンの熱演が却って鼻につく。閑話休題。

金素雲も1980年に銀冠文化勲章を受章している(年譜で1974年としているものがある)。今回のペ・ヨンジュンの受賞報道で金素雲に触れているものは見当たらなかった。そんなものか。

☆ 親日派(친일파 チニルパ)

2005年に民族問題研究所が発表した「親日人名辞典」収録予定者3090名の文化芸術の項目に,金素雲が含まれている。ほかにも『故郷の春(고향의 봄)』や『鳳仙花(봉숭아)』等の作曲家として知られている洪蘭坡(홍난파 ホン・ナンパ)もリストに挙がっている。その後2008年にリストは更新されて4776名になっている。

民族問題研究所による「親日派」の規定は次の通り。
「乙巳条約(※)前後から1945年8月15日の解放に至るまで,日本帝国主義の国権侵奪・植民統治・侵略戦争に積極的に協力することで,我が民族あるいは他民族に身体的・物理的・精神的に即ち間接的に被害を与えた者」
※ 1905年日本が朝鮮の外交権を奪い,保護国とした。

幼い頃に,職業柄日本人との接触が多かった父親が親日派として同胞に暗殺された金素雲としては,「てやんでぇ」と啖呵をきるところだろう。実際,次のように記している。

--日本こそは倶(とも)に天を戴かざるの仇敵でなければならなかった。
--間接には父を喪わしめ・・・直接には国を滅ぼしたその憎むべき相手は他ならぬ日本であった。
--私の日本についての理解や関心が,そんじょそこいらの御都合のよい〈親日屋〉のそれと,同格に扱われては浮ばれない・・・。

存命であれば,このような安易なレッテル貼りは腸が煮えくり返る思い・無念さ・悲しみ等の入り混じった気持ちになったのではなかろうか。

ある小学生が,金素雲の作品が教科書に掲載されているのはおかしいのではないかという主旨の投書をしている。しかもその投稿本文では,「キム・ソウォン(김소원)」となっている。韓国での評価が及び腰である点や,日本での知名度とのギャップの大きさなど考えさせられる点は多い。

「親日派」の問題は,韓国人が解決するしかないが,未だにこんなことで揉めているのかとせせら笑うわけにはいかないし,これを対岸の火事で済ませることもできない。日本における「戦争責任」の問題は,それどころか何も解決しないままの宙ぶらりんの印象が強いのだから。

2008年10月13日 (月)

板門店ツアー

☆ JSA(Joint Security Area 공동경비구역=共同警備区域)

パク・チャヌク(박찬욱=朴贊郁)監督の映画『JSA』で有名な板門店(판문점 パンムンジョム)へのツアーに参加した。旅行社の催行予定がなかなか発表されなかったが,それがいつものことなのか,他に事情があったのかは分からない。

ガイドは脅かしているわけではないが,盛んに緊張感を煽ろうとする。所詮観光客相手の外貨獲得なり政治的な思惑が優先しているだろうから,あまり額面どおりに受け止める気にはならなかった。

昨年,イムジン河・京義線鉄橋・臨津閣・都羅山展望台・第三トンネル・統一村は経験済みだから(cf:このブログの『イムジン河を越えて』),今回のツアーと一部重複していて,それだけインパクトが弱まったのかもしれない。

今回のツアーでは,臨津閣の望拜壇(망배단)の前でチャレ(차례=茶禮)を執り行っていたのが,最も印象的であった。このような「北」に故郷のある人々を失鄕民(실향민)と呼ぶらしい。

会議場内や,建物の横で「헌병(憲兵 military police)」と書かれた例のヘルメットをかぶり直立不動で立っている兵士は,3時間ほどトイレにも行けないらしい。甲子園球場で夏の炎天下に旗を持って立っている応援団員の苦行を連想した。

※ サイドバーの「板門店」をクリックして,アルバムの縮小画像をクリックすれば,拡大画像を見ることができます。

☆ 映画『JSA』

パク・チャヌク監督は,この映画で興行的に成功を収めた後,自分の撮りたい映画を以下の「復讐三部作」として発表していったのではなかろうか。
『復讐者に憐れみを(복수는 나의 것 =復讐するは我にあり)』
『オールドボーイ(올드보이)』
『親切なクムジャさん(친절한 금자씨)』

この事情は,サム・ペキンパー監督の『ゲッタウェイ』と,『ワイルドバンチ』・『ビリー・ザ・キッド21歳の生涯』・『ガルシアの首』の関係と類似しているように思える。

パク・チャヌクの復讐へのこだわりも,ペキンパーの自己破滅型とも言える男の美学へのこだわりも,ともにかなり異色である。

☆ 国連軍

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争(この日付に因んで,육이오=ユギオ と呼ぶことが多い)は,1953年7月27日に休戦協定が調印される。休戦協定の正式名称は,「国際連合軍総司令官を一方とし,朝鮮民主主義人民共和国最高司令官ならびに中共人民支援軍司令員をもう一方とする韓国軍事停戦に関する協定」だそうだ。この間,派遣された「国連軍」は国連憲章に規定された正規の国連軍ではなく,米軍とその同盟軍からなる多国籍軍であるから,在韓国連軍(UNKO)と呼ぶことになる。ただし,1972年までには韓国に駐屯していた外国軍は全て撤収したから,1975年以降「在韓米軍」になっている。

参戦国は,戦闘部隊派兵が米国などの16ヶ国,医療支援部隊がスウェーデンなど5ヶ国,これに韓国を含めてUN軍22ヶ国となる。

兵力は,6・25当時「南」が約10.6万名,「北」が約19.8万名で,参戦国の兵力は資料によって異なるが,米国約30万名,その他15ヶ国合計約5万名となっているものがある。

日本では,この戦争に出動した在日米軍を補完するため,1950年8月10日に「警察予備隊」が設置され,1952年10月15日「保安隊」に改組,1954年7月1日「自衛隊」設立へと再軍備の道を歩んで行くことになるが,実際にこの戦争に派兵する状況にはなかった。

当時,韓国の李承晩(이승만 イ・スンマン)大統領は「国連軍16ヶ国の青年たちが参加し,血を流して自由陣営を守っているのに,日本の青年たちは何をしていたか。映画を見て,パチンコをして,ストリップに興じていたではないか。そして特需で肥え太ったのではないか。」と語ったそうだ。特需に関しては全く違った見方もあり,俗受けを狙った一方的な見解と受け流すこともできるが,韓国人の意識には今でもこのような対日感情が根強く残っている可能性は高い。

こういういろいろなことを考える契機が得られるという意味で,ツアーに参加するのも悪くはなかった。

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