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韓国の歴史

2012年1月14日 (土)

黄土

☆ オード色

小学生の頃,絵の具やクレヨンのオード色ということばの響に馴染めなかった。外来語のようでもあり,何なんだこれはという感じであった。実際に「おうどいろ」と表記されていたのか確認した記憶はない。まして辞書で確かめるということは,思いもよらないというより不可能であった。我が家には学校の教科書以外に,本と呼べるものは3冊しかなかったから。何年か前に出た「児童年鑑」と児童書「ロビンフッド」とあとの1冊は多分手塚治虫だったと思う。
ところがどういうわけか「嘔吐」という言葉を知っていたから,まさかゲロ色ではないだろうと思いつつも,イメージとしては影響されていたようだ。

☆ 黄土の道(황톳길 ファントッキル)

このようなもやもやが解消したのは,何年か後に金芝河(김지하 キム・ジハ)の詩集『長い暗闇の彼方に』に出合ったときだ。冒頭の「黄土の道」を見て,ようやくオード=黄土が腑に落ちた。といっても,関東ローム層とかシラス台地を連想し,それらよりは肥沃な土壌かなという程度のイメージではあった。今ならむしろ黄沙/黄砂を連想するだろう。

長くなるが渋谷仙太郎(萩原遼のペンネーム)の訳でその詩の一部を引用してみよう。
黄土の道にあざやかな
血潮の跡,血潮の跡にそって
私はゆく,父よ
あなたは逝き
いまは黒ぐろと陽のみ燃ゆるところ
両手に針金くいこみ
灼けつく陽ざしが
汗と涙と蕎麦(そば)畑に照りつけ
銃と刃(やいば)のもと,灼熱のなかに
私はゆく,父よ
あなたが死んだところ
プジュンモリ河口のほとり,ぼら跳ねるころ
莚(むしろ)に覆われてあなたが死んだところ

姜舜の訳「黄土のみち」(『キム・ジハ詩集 五賊 黄土 蜚語』)では,次の通りで,また違った雰囲気だ。
黄土のみちにまざまざと
血の跡,その血の跡について
わたしは行く,そなたよ
そなたが斃(たお)れ
いまは黒ぐろとひとり炎天が占めるところ
両手には鉄線
灼けつく陽ざしが
汗と涙と蕎麦(そば)畑を照りつけ
銃口と刃(やいば)のもと,炎天のなかを
わたしはひとり行く,そなたよ
扶州のほとりマボラ入江に跳ねるころ
叺(かます)のなかでそなたが息絶えたところ

「黄土の道」の原文はコチラ「hwangtokkil.doc」をダウンロード

素人の感想としては,渋谷仙太郎の訳の方が青臭さはあるものの憤怒や決意の持続が強く感じられのに対して,姜舜の方は丁寧に訳そうとする余りへっぴり腰の印象を受ける。

そして勝手なイメージとして,東学農民戦争を思い浮かべる。腐りきった閔氏政権を倒すために,全羅道から漢陽(現ソウル)へ攻め上ろうとしたその道だ。結局,公州で官軍と日本軍に阻まれることにはなる。
しかしこの志は,1980年の5.18光州民主化運動に受け継がれ,部分的にせよ結実したと思っている。
それにしても,東学農民軍の皆殺しを執拗に推し進めたのがまさに日本軍であったということは,日本・日本人を考える上で極めて重要だ。

☆ 黃土峴(황토현 ファントヒョン)

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1894年の東学農民戦争(甲午農民戦争)の第一次蜂起の激戦地が,全羅北道井邑(정읍 チョンウプ)市の黃土峴であった([峴]は峠であり,재や고개と同義)。
ただしこの一帯に高い山はないから,峠という表現から受けるイメージとはあわない。

「東学農民革命記念館(동학농민혁명기념관)」へ行く道の曲がり角にこの碑は建てられている。

第二次蜂起の時の激戦地である忠淸南道(충청남도 チュンチョンナムド)公州城や牛金峙(우금치 ウグムチ)など,まだまだ訪ねてみたいところがある。そしてそれらを含めて,別のシリーズにまとめるのがこれからの仕事になりそうだ。

2011年12月31日 (土)

3度目の安重根義士紀念館

☆ 新築

ソウルの南山公園にある「安重根義士紀念館(안중근의사기념관)」が新しく建て替えられ,昨年(2010年)10月に再オープンした。改装ではなく,以前にあった場所から少しだけ離れたところだ。スロープを下りたB1が入り口になっている。延べ面積も10倍ほどになったそうだ。
建物も展示のレイアウトも,小中学生の団体見学などを強く意識しているように思えた。国内向けには当然だろう。しかし,何かギラギラした感じが強くて,日本人がじっくり歴史と向き合う空間としては期待したほどの印象は残らなかった。

歴史上の出来事を風化させずにどのように伝えていくかはなかなか難しい問題だろう。安重根のさまざまな評価を考えさせる場所ではありえないのは承知している。それでも,近年異常なほどヒステリックになっている韓国の世情--これをナショナリズムと呼ぶのは,韓国の場合ちょっとためらうところがある--を反映していることも間違いない。それがやや期待はずれだったことの一因になっていそうだ。

☆ 碑

安重根の遺墨を刻んだ石碑は,以前と同じように並んでいた。今回はデジカメを持って行ったから,やっと画像を載せることができる。簡単な解説は当ブログ『22年ぶりの南山公園』(http://paiksooyum.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-943c.html)を参照。
それぞれの画像はサイドバー「安重根」をクリックすれば見れます。(サムネイルをクリックすれば拡大画像になります。)
① 「見利思義見危授命」(견리사의 견위수명)
② 「國家安危勞心焦思」(국가안위 노심초사)
③ 「一日不讀書口中生荊棘」(일일부독서 구중생형극)

☆ 遊歩道

紀念館への往路はフェヒョン(會賢=회현)方面から上ったが,帰途はソパキル(소파길,소파로)に沿って整備された遊歩道を下った。途中にトンカツ店が何軒かあり,かなり有名らしい。最終的には,退溪路(퇴계로 テゲロ/トェゲロ)の世宗(세종 セジョン)ホテルのちょうど真向いに出る。この道を逆に上るのはかなりきつそうだが,ウォーキングにはなかなかよさそうなコースに思えた。
ただし,グルメ・ショッピング・エステが目的の短期観光だと,そんな時間的余裕はないだろう。リピーター向きといえそうだ。 

☆ 安重根義士 東洋平和祈願碑(안중근의사 동양평화기원비)

日本人が安重根の東洋平和思想を広く知ってもらおうという主旨で,「安重根東洋平和祈願碑」なるものを佐賀県佐賀市の無量寺に建てたそうだ。そしてその除幕式が3月25日に開かれた。以下,主として安重根平和新聞(안중근평화신문)の記事‘일본서 안중근동양평화기원비 제막식’(http://danji12.com)を参考にした。

日本人有志が韓国の団体「安重根平和財団青年アカデミー」と交流して,この建立に至ったように報道されているが,実情は分かったものではないから額面どおりには受け取れない。安重根の思想に心酔するのは構わない。しかし報道を冷静に見れば,物事を深く考えないピーマン頭の日本人が,鴨を狙っていた韓国人の思う壺にはまった構図にしか映らない。日本人が主体的に取り組んだ体裁にしたかっただけと思える。そのことは,次の2つの点だけでもぼろが透けて見えている。

碑石を設計施工し,毎日一字ずつ自然石に直接刻んだ日本人に対して功労牌が贈られたようだが,その文面を直訳すると次の通り。
--貴下は安重根先生の東洋平和精神を継承し実践する平化(※原文の漢字表記のまま。和?)運動に積極的に参与し,韓日両国民間人の友好親善に寄与し,特に安重根東洋平和祈願碑の建立に大いに献身した功が大きいのでこの牌を差し上げます。
2011年3月25日 大韓民国国会議員 金星坤
           安重根平和財団青年アカデミー

これはいったい何なのだ? 日本人が自身の金で建てたのなら,それを何故韓国人が表彰するのか。それも政治家の名前で。
しかもこの除幕式では,ソウルの芸大教授である女性がサルプリ(살풀이)を舞ったという。全く韓国式だ。いかにも「日本の民間人が安義士の記念碑を建てたのは今回が初めて」という宣伝材料に使おうという意図がありありで,実質的に事を運んだのは韓国側だということが明瞭に読み取れる。

さらに,この除幕式の式次第(日本語)には「安重根東洋平和祈願碑 除幕式」となっていて,実際の碑に刻まれている「義士」が省かれている。単に「義士」という表現が日本人に馴染みが薄いと判断したからなのか,その意図は分からない。まさか日本人にとって安重根は英雄ではないという一般の認識に配慮したとは考えられないが。

なお韓国では,「義士」は国や民族のために武力で闘い,道義のために命を惜しまず投げ出した人物で,軍人は除くようだ。安重根・尹奉吉(윤봉길 ユン・ボンギル)・李奉昌(이봉창 イ・ボンチャン)などに用いられている。
一方,「烈士」は主として丸腰で闘ったか,或いは抗議の意志を自決の形で表した人物。柳寛順・ハーグ密使事件(헤이그 특사 파견)で憤死した李儁(이준 イ・ジュン)など。

韓国の主張をそのまま代弁してくれるまともな日本人がよほど少ないと見えて,三流でも何でもいいから見つかりさえすれば飛びつくようだ。そういう流れの中で,あのいかがわしい黒田福美が修交勳章興仁章(수교훈장흥인장)を贈られたことの意味も理解できる。
このように考えてくれば,物事の裏側まで読み取れずに祈願碑を建てた日本人の行動を,お人好しだの甘ちゃんで片付けるわけにはいかない。こういう輩がいるからこそ,自虐史観だのと騒ぎ立てる連中に絶好の攻撃材料を提供することになる。2011年の不愉快なニュース№1に値する愚行といえそうだ。

この程度の薄っぺらな連帯で,日韓両国民間人の「親善と友誼」が図れるなら楽なものだ。日本人は他国人の力を当てにせずに日本でやるべきことがいくらでもあり,韓国人についても事情は同様である。そして,何十年かのそれぞれの苦労の果てにようやく真の交流が成り立つかもしれない。  

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