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韓国の歴史

2017年11月 7日 (火)

補遺ー4

☆ 在日朝鮮人の帰国事業③---2008年01月01日
--『謀略』の第四章在日朝鮮人追放の下手人たちでは,『北朝鮮に消えた友と私の物語』(1998年)の萩原遼の批判に重点が置かれている。萩原は,1972年5月から『赤旗』持派員として平壌に滞在し,1973年4月に労働党中央委員会から,非友好的という理由で「退去令」を通告された。渋谷仙太郎のペンネームで,キム・ジハの『長い暗闇の彼方に』を翻訳したことで知られている。
* *   萩原は,インタビューで自らが語ったように,友・尹元一の帰国を後押しした。しかし『物語』には,尹元一の帰国は「広瀬先生」の勧めであったと書いている。これは,尹元一の「人生を取り返しのつかないものにしてしまった」責任を架空の「広瀬先生」に押し付けるためであったと考えられる。
* *   しかし,驚くことに,特派員時代の萩原が『赤旗』に記した北朝鮮は『物語』に描かれているような酷い国ではない。『赤旗』の中の北朝鮮は,まさに「地上の楽園」だった。

ここからが読後感。
① 「日本から北朝鮮へ渡った人々は,金日成にとって厄介者以外の何者でもな」く,「思想改造を試みたが失敗し」,「次々と強制収用所へと送られ」るか,「飢えと貧困と思想改造の悲惨な生活を余儀なくされた」のであれば,日本赤十字社の「罠にはまった」で済む問題ではないだろう。
② 日本政府の意向によって日赤が動いたはずだから,批判の矛先はまず日本政府に向けるべきではないか。
③ 「もちろん,井上ら日赤の者たちは,北朝鮮へ渡った人々が強いられることになる惨状も承知していた」というのは本当だろうか。せいぜい,送り出してしまえば,後はどうなろうと知ったことではない位だったのではないか。もしその当時に頭を働かせれば,後年の「惨状」を予測できていたのであれば,それは日赤だけでなく,朝鮮総連も予測できていなければならなかったことになる。まさか,予測していてなおかつ帰国運動を推進したとは考えられない。
④ 「朝鮮総連が取り組んだ『帰国実現運動』」が,日赤の「在日朝鮮人の追放・民族浄化を,いわば実行犯として代行したことになる」その朝鮮総連と,萩原遼を「在日朝鮮人追放の下手人たち」として同列に論じるには無理がある。
⑤ 校正ミスをいくつか。
 ⅰ) まえがきに,帰国者数が9万9339人となっているが,他の箇所の9万3339人が正しい数字。
   ⅱ) 鴨緑江のルビは,アップロカンではなく,アムロッカン/アムノッカン。
   ⅲ) 許禹赫のルビは,ヒョウ・ウヒョクではなく,ホ・ウヒョクであろう。
  ⅳ) 李英和のルビは,イ・ハンヨではなく,リ・ヨンファ。
⑥ 知らなかつた事実も含まれていて,読む値打ちはあった。
⑦ 〈泣いた女がバカなのか,騙した男が悪いのか〉という永遠の命題を思い浮かべてしまった。

2回で書けるつもりが,3回になってしまった。これだけでも苦労がわかると言うもんだ。

☆ 在日朝鮮人の帰国事業③補足---2008年01月06日
張明秀が,萩原遼を批判している柱の一つは,『北朝鮮に消えた友と私の物語』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した点にある。つまり,ノンフィクションであるにもかかわらず,事実を歪曲して責任逃れを図っていると言いたいようだ。
大宅壮一賞が何ぼのもんじゃ!
:イザヤ・ベンダサンというおちょくったペンネームで『日本人とユダヤ人』を書いたのが,訳者と称していた山本七平自身だったことがその後暴露されたが,その『日本人とユダヤ人』も大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しているという事実を挙げれば十分であろう。
こういう権威主義とその裏返しの権威コンプレックスを脱却してこそ,主張が説得力を持つのではなかろうか。

☆ 関東大震災のときの朝鮮人虐殺---2008年01月13日
さて,もう一つの宿題である関東大震災のときの朝鮮人虐殺について。

今から20年以上前に,当時経営していた학원で,何回かドキュメンタリーフィルムの上映会を催したことがあった。金を儲けて文化の発信基地にというような夢があったが,相棒が病に倒れて,この夢はあえなく霧散してしまった。

そのとき上映した作品の1つが,呉充功監督の『隠された爪あと』である。関東大震災のときに虐殺された朝鮮人の遺骨発掘調査を追いかけた秀作だった。呉監督も当日,上映会にわざわざやって来てくれて,映画のあとのディスカッションにも参加し,意義あるものとなったのを覚えている。

今回,最近の情報を得ようと,ネットで調べたところ,『愛・蔵太の少し調べて書く日記』というのに出くわした。なかなかのしぶとい調査である。

当時,姜徳相の『関東大震災』(中公新書)は読んでいたし,犠牲者数として6千数百人というのが頭にインプットされたままであった。しかし,どうやらこの数字の信頼性は薄いという『愛・蔵太…』説の方が納得がいった。だからといって「大虐殺」が「中虐殺」に絡下げになるという話でないことは,断るまでもない。

朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』と並んで,衝撃を受けた本であっただけに複雑な心境だ。もっとも,この『朝鮮人強制連行の記録』にしても,鄭大均が批判を展開していて,説得力はあるから,同様な느낌といえる。

今回は,あっさりこれで完結。

2017年11月 5日 (日)

補遺ー3

在日朝鮮人の帰国事業① ---2007年12月29日
知り合いの韓国人留学生と話をしていて,話題が在日朝鮮人の帰国事業と関東大震災のときの朝鮮人虐殺に及んだ。彼女:は政治や社会問題に対して深い関心を持っているが,この2つに関してはあまり詳しくは知らないという。私も前者に関して気になっている部分もあり,宿題として調べることにした。

張明秀という人の『謀略・日本赤十字北朝鮮「帰国事業」の深層』(五月書房,2003年)と,同じ筆者による『帰国運動とは何だったのか』(民涛9号,1989年)が帰国事業を推進した側の主張を知る上で手がかりになると考えられる。幸い,『民涛』という20年近く前の季刊誌が手許にあったので,まずこれから要点をまとめてみよう。

在日朝鮮人の帰国(帰還)事業|は,1959年12月から実施され,1984年までに9万3千人あまりが北朝鮮に帰国した。在日朝鮮人の大部分は南部出身だから,生まれ故郷に帰ったということにはならない。
帰国事業の経緯は次のようである。
① 1958年8月,在日朝鮮人の集会で,帰国して祖国の建設に参加したいという手紙を金日成に送ったと表明。実際には,在日朝鮮人の帰国を共和国が朝鮮総連に密かに指示し,帰国の表明も決議文も朝鮮総連が準備したもの。
② 同年9月,金日成首相が帰国者受け入れを表明。
③ 朝鮮総連は,日本政府に共和国への帰国の保障を要求。
④ 朝鮮総連は,帰国実現のための署名運動などのキヤンペーンを展開。
⑤ 1959年2月,日本政府は日赤に業務を委任。
⑥ 同年4月,日朝赤十字会談が開かれ,同年8月に「在日朝鮮人の帰国に関する協定」が締結。
⑦ 同年12月から帰国実施。

日本政府が,在日朝鮮人の帰国に反対しなかった理由として,次のように述べている。
① 植民地同化政策の犠牲者を幾許かの費用で送り出してしまえる。
② 特に,日本政府の政策に反抗的な朝鮮総連のメンバーを厄介者払いできる。
③ 日赤に業務を委任することで,人道主義の立場を装うことが出来る。
④ 在日朝鮮人の共和国への帰国に反対していた韓国政府とは,日韓会談が行き詰まっていた。

さて,このようにして帰国した人々のその後は,田月仙(チョン・ウォルソン)『海峡のアリア』を読むまでも無く,周知の通りである。張明秀はその責任の所在に関して,次のように記している。
共和国への帰国は在日同胞が切実に望んだものではなく,共和国からの指示にもとづいて総連組織が準備組織した「希望」によって始められたものである。帰国者は総連の言うことを信じて共和国に帰国していったのである。ならば当時在日同胞に共和国ヘの帰国を勧め,帰国後の「地上の楽園の生活」を保障し,基本的人権を保障した韓徳銖議長をはじめとする総連の幹部が帰国者との「約束」に責任を負わなければならないのは当然のことであろう。そして帰国をすすめたすべての活動家がそれぞれの立場で責任を負うべきである。

この発言が,十数年後の『謀略』でどのよう|こ変遷していくかは興味がある。

在日朝鮮人の帰国事業②---2007年12月30日
さて,張明秀の『謀略・日本赤十字北朝鮮「帰国事業」の深層』だが,何とも論旨が捉え難い。断定と推測が混在し,筆者の位置の取り方が不安定なためかもしれない。とりあえず,抜粋してみよう。
* *   私は,なんということをしたのであろうか。私はこの手で,10万人近くの人々を,北朝鮮という地獄へ送り出したのだ。
私は,彼らを送り出した者として,事態の解明,真実の追求というかたちを借りて自己の責任を果さなければならない。1983(昭和58)年,私は30年近くの総連活動に区切りをつけ,この問題の真相究明に乗り出した。
20年にわたる調査から浮かび上がってきたものは,在日朝鮮人の追放,民族浄化という謀略だった。
謀略の黒幕は,日本赤十字社であった。

* *   在日朝鮮人は,日本にとって,厄介者以外の何者でもなかった。
そこで,外務省から日本赤十字社へ派遣された井上益太郎なる人物が中心となって,在日朝鮮人の追放が画策された。

* *  日本赤十字社外事部長・井上益太郎は,赤十字国際委員会との長年の関係をもとに密約を結び,金日成,北朝鮮赤十字会,朝鮮総連などを騙し巻き込んで,9万数千名にも及ぶ在日朝鮮人の追放に成功した。もちろん,井上ら日赤の者たちは,北朝鮮へ渡った人々が強いられることになる惨状も承知していた。

* *  在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国事業」は,日本赤十字社が仕組んだ謀略だった。1954年1月6日に北朝鮮赤十字へ打った電報で,帰国希望者の帰国援助を約束し,それを信じた北朝鮮から約束の履行を迫られるととたんに拒否し,その間に赤十字国際委員会と密約まで交わし,より大集団の在日朝鮮人を追放するという民族浄化の罠だった。

そして,金日成,朝鮮総連,日朝協会,日本共産党,旧日本社会党と自民党議員,知識人,マスコミ,皆,この罠にはまった。

-- 具体的に経緯を並べてみよう。

* *  (1954年)日本赤十字社は北朝鮮赤十字会に対し,北朝鮮残留日本人を迎えに行く船便で,帰国を希望する在日朝鮮人を帰国させるとの確約を交わしていた。
* *  この確約にもかかわらず,日赤は,これを聞きつけて駆け込んだ50人の在日朝鮮人の帰国要求を拒否。

* *  56年1月末,日赤の代表団が平壌を訪間--残留日本人の帰国と在日朝鮮人の帰国問題を協議するため。
* *  日本側は,在日朝鮮人の帰国を拒否し,帰国問題会談終る。

* *  1958(昭和33)年8月から朝鮮総連が取り組んだ「帰国実現運動」は, 日赤が1954(昭和29)年から企てていた在日朝鮮人の追放・民族浄化を,いわば実行犯として代行したことになる。
* *  朝鮮総連が唐突に「帰国実現運動」を始めたのは,金日成からの指示によるものであった。
* *  日赤の罠|こかかった金日成は,日赤によって利用され,10万の在日同胞を北朝鮮に招き入れる結果となった。
これは明らかに,金日成の失策であった。
* *  「帰国実現」は金日成の失策であったから,当然,日本からの帰国者は金日成にとって待ち望んだ者ではなかった。むしろ,余計者であった。

-- 以下,「在日朝鮮人追放の下手人たち」として,萩原遼・日本共産党・寺尾五郎などが続くが,萩原遼に関してと全体の感想は次回にまとめてみる予定。

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